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2020年9月24日(木)

《ぴあ×チャンネルNECO》強力コラボ 【やっぱりNECOが好き!】 第109弾~第117弾

ぴあ×チャンネルNECO強力コラボ連載第117弾!!
組織の中に俳優人生を見いだした男、渡哲也の“本気”を映し出したサスペンス

今年8月10日、78歳で亡くなった渡哲也には、TVドラマ「西部警察」(‘79~‘84)の「大門軍団」を率いる大門刑事、あるいは石原プロの中心的存在だったことから、集団のボス的なイメージを持つ人が多いのではないか。しかし俳優・渡哲也の魅力は、日活のアクション・スター時代の「無頼」シリーズ(‘68~‘69)で見せた、仲間や恋人を守るため、匕首(あいくち)一つを頼りに単身組織に戦いを挑む“人斬り五郎”、さらには世話になった親分や兄貴分と衝突しながら孤立を深め、暴力だけを突破口に破滅へとひた走るやくざを演じた「仁義の墓場」(‘75)など、我が身だけで人生を突き進んでいく、一途でエネルギッシュな一人の男の姿にこそあった。

そんな渡哲也の映画俳優としての“本気”が感じられた後期の代表作が、「誘拐」(‘97)である。城戸賞受賞作になった森下直の脚本を、平成ゴジラ・シリーズを「ゴジラVSデストロイア」(‘95)で完結させた直後の大河原孝夫監督が映画化したこの作品は、誘拐事件の身代金引き渡しをTVで生中継するという、前代未聞の内容で話題を呼んだ。大河原監督はゴジラ映画をはじめとする特撮作品で知られるが、森谷司郎監督の「日本沈没」(‘73)や黒澤明監督の「影武者」(‘80)などで名監督の下で助監督経験を積んできただけに、ここでもスケールの大きい身代金受け渡し劇と、二転三転するストーリーを見事にさばいている。

新宿の空にヘリが飛び交い、地上ではTV取材班に取り囲まれながら、3億円の身代金を会社の重役が運ぶ。このオープニングから、観客はこれまでなかった劇場型犯罪の世界へと一気に引き込まれる。犯人の誘導による身代金の運搬は2回行われるが、最初は東京都庁から新宿駅周辺のガード下を抜けて歌舞伎町を通り、旧国立競技場まで。2度目は田町駅から新橋、銀座を通って、日比谷公園までが主なルート。当初の脚本では郊外に設定されていた運搬ルートを東京の繁華街に変更したのは、撮影を担当した木村大作のアイデアだった。TV取材班が群がる雰囲気を出すため、カメラ50台(外見だけのダミーを含む)、野次馬役も含めたエキストラを入れると約500人が撮影に参加した。この撮影には日本映画撮影監督協会が全面的に協力し、TV局のカメラマン役として日本の名だたる映画カメラマン36人が加わっている。

しかも新宿、銀座などの場面は全て無許可のゲリラ撮影。身代金運搬役の俳優をエキストラが二重三重に取り囲んで、一発本番の撮影が10日間続いた。2度目の運搬では最初に運搬を指名された人物が倒れ、付き添っていた渡哲也演じる刑事・津波が運搬を引き継ぐが、この身代金を入れたバッグは本物の札束と同じ30kg分の重量があった。渡はこのとき、‘91年に大腸がんの手術を受けてから人工肛門を使用していて、激しい動きをさせることに周囲から不安の声が上がっていた。しかしバッグを受け取った彼は猛スピードで走りだし、撮っていた木村大作が追い付けないこともあったという。一度引き受けた仕事は全力でやり切る。それが俳優・渡哲也の生き方を表している。犯人に指名されていない刑事が身代金を運ぶのは越権行為で、その独断は非難されて当然だが、自分1人で状況を突破するアウトローを演じてきた渡哲也が演じることで、この身代金運搬は説得力を持った、緊迫感溢れる名シーンになった。

「誘拐」公開時、私は渡哲也にインタビューしている。彼は会った瞬間、「見ていて、おかしいところはなかったですか?」と、逆に質問してきた。人物関係も含めて、事件のディテールを繊細に描かなくてはいけない作品だけに、それが見る者に伝わっているのか知りたかったのだ。そのときの自分を飾らず、謙虚に作品を見つめようとする、スターらしからぬ姿勢が忘れられない。

また当時彼は石原プロの社長だったが、高倉健と自分の俳優人生を比べ、「会社を背負うことで好きな企画ができないこともあったが、石原プロがあるからこそ今の自分がある。(高倉)健さんは好きな作品に挑戦できるのはうらやましいが、たった一人で道を切り開いていくことの厳しさもよく分かる」と言っていた。彼は会社という組織の中に、高倉健は個人の中に自分の俳優人生を見つけたのである。だが彼は「西部警察」など石原プロ制作の作品を離れると、「誘拐」の津波刑事のように、“個”が際立つ役を好んで演じた。それは実人生ではかなえられなかった個人のエネルギーを、作品にぶつけていたように思える。そんな彼の俳優としての“本気”の思いが、「誘拐」には込められている。


金澤誠(ライター)

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2020.8.24

ぴあ×チャンネルNECO強力コラボ連載第116弾!!
日本の青春映画は、水谷豊を世に出した「青春の殺人者」以前・以降に分かれる

例えば、戦後最大の映画スターといわれる石原裕次郎が自身のプロダクションで企画した「太陽にほえろ!」に萩原健一、松田優作がレギュラー出演したことで、刑事ドラマの風貌が変わったように。すでに一時代を築いていた横山やすし・西川きよしに新進のB&Bやツービートが食らいつく構図が生まれたことで、80年代初頭の漫才ブームが巻き起こったように。期せずして、価値観、表現観が明確に異なる前世代と旧世代が共同作業に臨む場合がある。生き方の土台からして違う者たちが真摯(しんし)に交錯するため、当然のように激しい摩擦を生み、瓦解(がかい)の危機を招く。その摩擦熱を反転させてエネルギーとして放出し、バラバラになる危機を乗り越えたものだけが、ジャンルの〈以前・以降〉を画する存在となる。では、日本の青春映画で該当する作品は何か。少なからずの映画人が、それほど迷いもなくこう答えるだろう。

「『青春の殺人者』だ」

プロデューサーの1人は今村昌平。脚本は大島渚作品で知られた田村孟。どちらも、60年代の日本映画を最前線でけん引した巨大な才能だ。一方、監督は今村組からキャリアをスタートさせた新人の長谷川和彦。原作小説「蛇淫」を書いたのは文壇の新進・中上健次。音楽はデビューしたばかりのバンド、ゴダイゴ。相次ぐ映画撮影所の閉鎖、大手のプログラム・ピクチャー番組の行き詰まり、自主製作の映画作家の台頭など、日本映画の構造がかつてないほど大きな端境期を迎えた70年代半ばに、〈日本映画の斜陽以前〉を知る者と知らぬ者がメインスタッフに顔をそろえた。これが完成して「青春の殺人者」(’76)となる。

ストーリーはひとことで言えば、発作的に両親を殺してしまった平凡な若者の葛藤。中上健次は実際に起きた両親殺害事件を、自身の文学の重要なモチーフとなる〈親殺し〉に引き寄せ、オイディプスの神話の世界と現代のくすんだ路地が水と火を媒介に結ばれる物語として描いた。この中上文学を映画にするためのアプローチを巡って、一個の事件が世界(の価値)転覆まで観念的に昇華していく物語を指向する田村と、やらかしてしまった青春のよるべなき実感をこそ描きたい長谷川との間で大きなズレがあったことは、すでによく知られている。

田村と長谷川の対立はイコール、映画で革命を描けた世代と、個人に立脚する以上のリアリティーはないと悟った世代の対立だ。結果、主人公・順が両親を殺す前半までは田村の脚本にほぼ忠実に撮られ、後半は長谷川が大きく自分の主観に引き寄せて改稿したという。これは、長谷川自身が「キネマ旬報」’77年2月下旬号掲載の藤田敏八との対談などで詳細に明かしていることだ。「青春の殺人者」は、緊密でサスペンスフルな前半と、情緒的・内省的な後半とでトーンが変わる映画だが、それはスタッフ間の緊張——まさに映画の〈親殺し〉と重なり合う世代の闘争——が、かなりダイレクトに反映された結果なのだ。

自分を鬱屈(うっくつ)させる身の回りの環境を壊す行為までは、映画だからこそ可能な〈夢(あるいは悪夢)の代行〉として、大きな共有のもとで描ける。しかし、壊した後にどう生きるのか、どう世界を再構築するべきかの答えはそれぞれが違う——。ラストシーンが悲劇と映るか、それとも新たな出発に見えるか。見る者にすぐ答えの出ない揺らぎを残すがゆえに「青春の殺人者」は、何度再見してもみずみずしい。

多くの現役映画人が影響を受けた作品として「青春の殺人者」を挙げている。しかし、個々のそうそうたる名前を列記したところであまり意味はない気がする。例えば、メンバーが別にザ・ビートルズの熱心なファンでなくても、ザ・ビートルズの影響下から完全に切り離されたロックバンドを探す方が難しいだろう。それとほぼ同じ意味だ。少なくとも70年代以降の、ドロップアウトした若者を主人公にした日本の青春映画の大半が「青春の殺人者」を成分として含んでいる。〈以降〉とは、そういうことだ。

……ふう。やや肩に力が入ったガイド文になっている。だって「青春の殺人者」だよ! 「伝説の名作」とか、「誰それに大きな影響を与えた」とかサラッと書いて済ませられないじゃん! 20代の時はVHSで、「想い出を君に託そう(If You Are Passing By That Way)」の曲が流れるファーストシーンを3回見るのが日課でした、などとラブレターを書き連ねたくなるのも堪えてるんだこっちは、と意味不明の逆上を我慢していると余計に抑えた調子になり、今回の原稿の一番のポイントにここまで触れなかった。

以上に書いてきた、空中分解しかねなかった映画の各要素をしなやかな肉体でつなぎとめ、観念から実感への移行に説得力を与えたのが、主演の水谷豊である。水谷豊といえばまず浮かぶのは「相棒」シリーズという世代のファンも、杉下右京さんの役者が若い頃はナイーブなアウトロー役を多く演じていたことはご存じだろう。それでも「青春の殺人者」を初めて見たら、柄を失くしたむき出しのナイフのような危険さをここまで発散させていたのか、と驚くだろう。

当時の水谷は、順調だった児童劇団時代の反動もあって俳優業に今一つ本気になり切れずにいた。それでも映画を見ることは好きで、特にジェームズ・ディーンに憧れていたという。昨年(’19)、本人に取材して映画の影響について話を聞く機会に恵まれたのだが、その場ではこんな言葉を残している。

「僕は、アメリカ映画の演技が内面重視に変わった時代の洗礼を浴びた世代なんですよ。(中略)『理由なき反抗』のジェームズ・ディーンを見ると、冷蔵庫を開ける動作一つの中に様々な感情がもどかしく渦巻いているのが分かる。決まった価値観に縛られない感性でなければああいう演技はできません。俳優として物凄く感化されましたね」
(「月刊スカパー!」2019年5月号)

本作の企画段階から、「エデンの東」(’55)や「理由なき反抗」(’56)のタイトルは想定イメージとして出ていた。豊に「ジェームズ・ディーンをやるぞ」と言ったらすぐ、「それならやります」と返事が来た——。長谷川和彦がDVDの特典映像などで証言していることと、水谷の「青春の殺人者」出演への動機は符合する。

そう、「青春の殺人者」で水谷豊は本気になり、本当に日本のジェームズ・ディーンをやりおおせたのだ。自分を溺愛でコントロールしようとする両親へのいら立ち、憎悪、しかし生活の全てが親がかりである甘え、依存心。複雑な思いが絡み合うさまを、傲岸(ごうがん)不遜な態度から一瞬にして不安な目つきに変わることで十全に表現している。この映画の水谷豊の演技は、理屈の解釈よりも速い。

原作小説「蛇淫」の主人公・順が、屈強な肉体の若者として描かれている点も触れておきたい。ごつごつした、「食う物がなければ、なにを殺してでも食うという体」を小説の順はむしろ誇りにし、その生物的な力が、両親に抑え込まれる怒りを過剰に増幅させる。一方、水谷豊による映画の順は、ぜい肉のない引き締まった体を敏しょうに跳ねらせつつ、強く匂うのはマチズモ(男性優位主義)ではなくフェミニンな繊細さだ。両親殺しは血縁の断切行為ではなく、一人息子の甘えの延長として行われたのではないか、だから順は凶行の後もすぐに逃避行できず、グズグズしてしまうのではないか…と想像させる。この映画の水谷豊の肉体は、ひょっとしたら脚本家や監督よりもテーマを深く読み込んでいる。

つまり、「青春の殺人者」を今見たら、水谷の右京さんも若い頃はこんな演技を…と感心している場合ではなくなってくる。今秋のオンエアに向けた撮影開始が伝えられている「相棒」シリーズも、バディーとなる刑事役を交代しながら19シーズン目となる。監督作「TAP -THE LAST SHOW-」(’17)と「轢き逃げ -最高の最悪な日-」(’19)では、オーディションでまだ世に名の出ていない若手俳優を積極的に起用。もはや水谷豊は〈親殺し〉とはとても縁のない、俳優業界の〈良き父〉の位置にいるとはた目には映る。しかし、ではなぜ大ベテランとなった今も、水谷の演技からは尖ったものがにじみ出るのか。苦みを含んだ割り切れなさを見る者に残すのか。

「青春の殺人者」で体現した〈親殺し〉の物語は、水谷豊の中でまだ続いている。若手を引き上げながら、今度は、いずれ自分を倒しに来る者を待っているのだ。


若木康輔(ライター)

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2020.7.27

ぴあ×チャンネルNECO強力コラボ連載第115弾!!
“お約束”は、ここから始まった…!? 日本ドラマの原点となるロマンチックなホームコメディー

2020年春の地上波テレビは、新型コロナウイルス感染症拡大の影響でドラマ製作が次々と延期され、新作が放送されない、かつてない異例のシーズンを送った。代わりに枠を埋めたのは、人気の高かった旧作を再編集して「特別編」や「傑作選」と銘打った実質的な再放送。各局ともに苦肉の策だったわけだが、これが「昔の日本のドラマは面白い!」と評判になり、旧作視聴へのニーズがCS放送や配信、ソフトにまで広がる、思わぬ効果を呼んでいる。“ステイ・ホーム”の期間、家族で過ごす時間が「多くなった」と回答する人の割合が増加した各種アンケートのデータも、ニーズを裏打ちしているだろう。それこそ昔の日常ドラマの特長だった“家族みんなで見られる”健全な明るさが今、本格的に見直されてきている。特に70年代から80年代にかけての時期のホームドラマは、「再放送を」の声が高い。

それだけ“家族みんなで”の時代のドラマは、質の高いものがそろっている。TVは一家に1台がふつうだったから、親の世代と若い世代、子の世代それぞれが感情移入できる魅力的な登場人物が必要になる。まとめ視聴できないビデオデッキ普及以前の時代だから、登場人物同士の関係や距離が近づいていくプロセスが、じれったさも含めて細やか。

(前置きが長くなったが)そんな、今こそ愛される旧作ホームドラマの真打と言えるのが、満を持して8月から映画・チャンネルNECOで放送される「おひかえあそばせ」(’71・全13回)だ。

男手ひとつで6人の娘を育ててきた池西猪太郎は、退職金で一軒家を買い、念願のマイホームを獲得する。しかしその家には元の家主の息子・薫が居座っていた。薫は女嫌いで直情型のカメラマン。男嫌いでじゃじゃ馬揃いの姉妹達と初日から派手な大喧嘩になってしまい、池西氏にとっては心配の種がつきない第二の人生が始まる―。

もう、この設定からして楽しそうでしょう。毎回、家の中でトラブルが持ち上がるごとに家族の絆は強まり、そのうち犬猿の仲だった薫と姉妹たちとの間に信頼が生まれてきて、やがて恋の感情も……という展開が想像されるでしょう。で、そうなるんです。期待通りに進みます。そしてその、まるで碁盤に定石をビシッビシッと迷わず置いていくような安定感に付き合うのが、すっごく楽しいんです。

製作は、日本テレビの関連会社として発足したばかりのユニオン映画。第1回作品となる「おひかえあそばせ」のキーマンとなる薫役に起用したのは、「おくさまは18歳」(’70-71)で俄然注目を集めていた石立鉄男だった。それまでシリアスな役の多い二枚目俳優だった石立だが、「おくさまは18歳」でコメディー演技に開眼。「おひかえあそばせ」では思い切って、池西家の女性軍に強気で台所や風呂の使用権を主張しては毎度コテンパンにされる三枚目演技を徹底した。これが全国区の人気を呼んで、似てはいるが少しずつ変えた設定の、「気になる嫁さん」(’71-72)、「パパと呼ばないで」(’72-73)、「雑居時代」(’73-74)…と石立主演ドラマが連作されることになる。

連作全てでメインライターをつとめたのは、民放テレビの草創期からキャリアを始め、東宝のクレージーキャッツ映画も手掛けてきた松木ひろし。都会的なテンポの良さと人情味のブレンドが抜群なこの脚本家の才能が、石立鉄男と出会うことでどれだけ日本のドラマを豊かにし、楽しいものにしてきたかは計り知れない。なにしろ、松木の集大成的な代表作といえば「池中玄太80キロ」(’80-92)。熱血カメラマンが血のつながらない娘達との父子関係に奮闘する……そう、玄太は、主演を西田敏行にバトンタッチして続いたユニオン映画のリニューアル版でもあったのだ。

断言しよう。「おひかえあそばせ」から始まる一連のユニオン映画の石立鉄男主演シリーズは、大げさでなく日本のドラマの金字塔だ。後々の大ヒットした連続ドラマのセールスポイントの、ロールモデル集と呼べる存在だから。

「おひかえあそばせ」の場合、薫と池西家の姉妹は顔を合わせれば喧嘩ばかりだが、面倒見の良い宝石デザイナーの次女・梅子(宮本信子)と、活発な雑誌記者の四女・菊枝(岡田可愛)は次第に、薫の無骨なふるまいの裏にある優しさ、ひたむきさに気付き始める。しかしお互いの手前、薫にはますますつっけんどんな態度を取ってしまうことに。この爽やかなおかしさ、甘酸っぱいもどかしさは、80年代に一世を風靡した“トレンディドラマ”を始めとした、あらゆるロマンティックコメディーの原点になっている。それに、手違いから同居することになってしまうハプニングのスタートといえば、「ロングバケーション」(’96)を思い出す人がきっといるだろう。血のつながらない同士が一つ屋根の下で暮らし、絆を育てていくあったかい姿に「マルモのおきて」(’11)や「義母と娘のブルース」(’18)が重なる人も多いだろう。などなど。

一方で「おひかえあそばせ」には、古典の魅力を見事に現代劇に活かした好例、という側面もある。きょうだい全員が姉妹の設定は、まず間違いなく、オルコットの小説「若草物語」とその映画版にヒントを得ているからだ。伊丹十三と結婚して間もなかった宮本信子の大人の魅力、「サインはV」(’69-70)で大ブレイクを果たした直後の岡田可愛の、まぶしいほどの健康的な色気。それに冨士眞奈美の、大美女なのに突き抜けたドタバタ演技を惜しまない元祖・怪女優ぶり。円谷特撮作品でおなじみの嘉手納清美のさっぱりした明るさ。当時は東宝青春映画でも活躍中で、後に藤岡弘(現・藤岡弘、)と結婚した鳥居恵子の清楚な純情。子ども雑誌モデルで大人気だった津山登志子のクルクルした茶目っ気。6人姉妹を華やかに演じる女優陣から、最近風に言えば視聴者がそれぞれ“推し”を見つけられる作りになっている。

ただし「おひかえあそばせ」は’71年のドラマなので、当然ながら、男性観・女性観それぞれに今はちょっと通用しない…という描写やセリフがある。そこは理解していただきながら見てほしいところだ。むしろ、女は結婚して旦那様におとなしく仕えてこそ幸福という価値観を、自分の仕事に打ち込む姉妹の姿を活き活きと描くことで乗り越えようとしている、当時としては進んだ、意欲的な設定なのだ。姉妹のファッションは今見てもしゃれているし、お互いの会話もカラッとしていて小気味いい。キャラクターの中身自体は、まるで古くなっていない。だから前述したように、様々なドラマの名作にDNAを受け継がせることができたのだと思う。

それこそ「若草物語」がキャサリン・ヘップバーン、エリザベス・テイラー、ウィノナ・ライダーと主演を変えながら何度も映画化され、今も、シアーシャ・ローナン主演の最新版「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」の劇場公開が評判になっているように、見る人の心を掴む設定やパターンは、旬の俳優、旬の女優が演じることで更新され、その時代時代に合わせてアップ・トゥ・デートされながら磨かれていくのだ。旧作ドラマを見る楽しさ、喜びは、そのつながりに気付き、味わえるところにある。


若木康輔(ライター)

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2020.6.24

ぴあ×チャンネルNECO強力コラボ連載第114弾!!
ジャッキー・チェンの原点となる、陽性のカンフー・アクション3作品

体当たりのスタントとユーモアを武器に、40年以上にわたりアクション映画の第一線で活躍を続けるスーパースター、ジャッキー・チェン。66歳となってなお中華圏からアジア、ハリウッド、さらには世界を股にかけて映画を撮り続ける精力的な姿勢には頭が下がる。最近でも「カンフー・ヨガ」(’17)、「ナイト・オブ・シャドー 魔法拳」(’19)など陽性の娯楽作を連打しており、今や明るく楽しい“ジャッキー映画”は、一つのジャンルを確立しているといえるだろう。そんな彼のブレない精神を知るならば、まずはキャリア初期の作品を見ないことには始まらない。

ジャッキー映画のルーツをさかのぼれば、代表作である「ドランク・モンキー/酔拳」(’78)、「プロジェクトA」(’83)に行き着くのだが、これらほどメジャーではないものの、実はジャッキーの初期作品にはほかにも見逃せない作品があるのだ。

例えば、無名時代に主演した「カンニング・モンキー/天中拳」(’78)。デビュー当時ブルース・リーの後継者として売り出され、シリアスなアクション映画への出演を強いられてきたジャッキーは、本作で初めてカンフーとコメディーを結びつける。ダメ男が武術で奮闘する点で、出世作「〜酔拳」のひな型的作品ともいえるだろう。またこの作品でジャッキーはアクション演出も手掛けており、カンニングペーパーをチラ見しながら戦うなどのコミカルな見せ場に、後のジャッキー映画の萌芽が見て取れる。

また、「クレイジーモンキー/笑拳」(’79)は、「〜酔拳」でのブレイクを経たジャッキーが初めて主演とともに監督を務めた記念すべき快作だ。祖父を殺した憎き敵に、カンフーの腕を磨いて立ち向かうお調子者の若者の奮闘劇。喜怒哀楽を武術に織り込み、ヘン顔をつくりながら敵を圧倒する、そんな明るく楽しいジャッキー独特のアクション演出が光る点でも見逃せない。

そして監督兼主演の3作目となった「ドラゴンロード」(’82)。良家のドラ息子が、ままならぬ恋や友情と格闘しつつ、悪党の陰謀に立ち向かう。カンフーの見せ場はあるものの、ここでは羽蹴りや中華ラグビーなどの中国伝統の競技を取り入れ、落下やダイブなどのスタントにも本格的に挑んでいる。スタントの限界に挑むジャッキーの冒険が始まった点で、注目に値する。

近年では、「1911」(’11)、「ザ・フォーリナー/復讐者」(’17)など、歴史を描いた大作や親の愛を見つめたシリアスなドラマへの出演も目立ち、年相応の円熟味をうかがわせることもあるジャッキー。今回、映画・チャンネルNECOで放送される若き日の作品は、そんな円熟とは無縁だが、そこにはひたすらエネルギッシュに突っ走る20代のジャッキーがいる。未熟者の成長のドラマは魅力的だし、何よりその動きは若々しくスピーディだ。そのアクションのキレの良さをぜひ見てほしい!


相馬学(ライター)

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2020.5.25

ぴあ×チャンネルNECO強力コラボ連載第113弾!!
“悪役”ではない“悪人”を描いた、白石印のピカレスクロマン

やくざやギャング、アウトロー。社会のルールから外れた彼らが主人公の映画を見ているうち、ひょっとしたら彼らほど仕事熱心で、活動的な者たちもいないのではないか…と倒錯した感嘆に襲われた経験がないだろうか。僕は何度もある。現実では付き合うのはちょっと…なはずなのに、映画の中の悪徳の世界に生きる彼らは、まぶしいほどに充実している。いつ殺(や)られるか撃たれるか、先に裏切るか裏切られるのか。昼も夜も臨戦態勢で、ひと時も気が休まらない。そんな姿であればあるほど、不思議にうらやましく映る。

人は誰でも、自分の欲求のまま生きられる場所にさえ恵まれれば、そこに全ての時間をささげて惜しくない望みが心の内にある。つまり、悪い奴らが闊歩する映画には実は、人生の理想を反映してくれる側面がある。だから痛快なのだ。

その典型が、アウトローが主人公の作品の4カ月連続企画〈闇の祭典ダークワールド2020〉の第一弾「日本で一番悪い奴ら」(’16)だ。北海道警察の刑事が銃の密輸、麻薬の横流しなどに手を染めていたのが発覚した実際の事件を、その刑事本人が著した原作を基に映画化。猪突猛進であらゆる悪事を重ねていくさまが組織内のサクセス・ストーリーにもなっていく、ねじれた猥雑さに満ちた快作だ。

監督の白石和彌は、やはり実際の事件をモデルにした「凶悪」(’13)で注目され、「日本で一番悪い奴ら」で一躍、日本映画の第一線に躍り出た。2本とも日活の企画作品。’10年代の日本映画の特色の一つに、TV局が二の足を踏むような、尖った、アンチモラルな題材をあえて選んだ作品が、ファミリー層向け中心のメジャー作品の周辺を活気付ける図式が定着したことが挙げられる。そうした作品を多く送り出してきたのが日活で、白石自身が「TVでは無理でも映画ではギリギリ出来るところを常に狙っている。そこに自分の生きる道がある」と語る姿勢と時流が、この2本で見事にはまった。

しかし、悪徳刑事の転落のさまにエッジが効いているから痛快だ、だけでは済まない、ドロッとしたところが「日本で一番悪い奴ら」にはある。それが、独自のコクになっている。

白石和彌には、一度だけインタビューしたことがある。’18年の秋。 その時に意外だったのが「監督の映画やドラマは、悪い奴がイケイケの路線と、停滞した若者がもがく路線とに大きく分かれますね?」という僕の問いに対する答え、「僕は自分がイケイケだとは一度も思ったことがない」だった。

「(助監督時代が長くてデビューが遅く)俺はうだつがあがらない……という思いは実はまだ残っていますよ。『凶悪』の頃までは、これがダメなら地元に帰ろうと本気で考えていたから。停滞した気持ちのほうが僕はよく分かるんです」(「月刊スカパー!」’18年11月号)

よく考えてみればこの心境は、「日本で一番悪い奴ら」の主人公・諸星の前半の姿そのものだ。 「柔道だけが取り柄の」新人警官・諸星は、不器用な実直さが先輩のいびりの的にされ、ひたすらお茶を入れ、書類を書かされる毎日。白石演出のミソは、実はこの停滞の描写に時間をかけているところにある。だから諸星は、「エス」(スパイのエス=捜査協力者)を見つけて点数を稼ぐことをいったん覚えたら、もう止まらなくなる。銃をやくざやロシアから買い、麻薬を街に流し、遂には自分も常習者になっていく。

罪を犯せばドンヨリした状況を打破できるが、同じだけの苦しみが待つだろう。しかし、法こそは破らないが代わりに活力に欠ける人間と、どちらが真に生きたと言えるのか? 白石和彌は映画で常に、見る者に、自分に、のっぴきならない問いかけを突き付けている。

そんな白石映画のエッセンスを、綾野剛が憑かれたような熱演で体現しているのは「日本で一番悪い奴ら」の大きな見どころ。綾野はそれまで、イケメン男優のひとりに数えられる人気に甘えることなく、繊細な若者の役、卑劣で荒んだ男の役などなんでも演じてきた。そして前年の’15年、「コウノドリ」で連続ドラマ単独初主演を果たし、心優しき産婦人科医役で注目度を高めたばかりだった。

「日本で一番悪い奴ら」での狂犬ぶりとの振幅に、当時の僕等はずいぶん驚いたわけだが、それは別に綾野剛を、器用な、幾つもの役を演じ分けできる俳優だと見たからではない。諸星の根底には、自分を拾ってくれた警察組織の成績になることがうれしい、という物悲しいほどの実直さがある。だから何度も、死の危険がある渦中に飛び込む。「コウノドリ」の産婦人科医は、新しい生命を世に送り出す仕事の責任の重さをよく分かっている。だからいつも、おだやかな笑顔で妊婦に接する。

どっちも、ヒリヒリするほどの命の現場に向き合う男、という意味では同じなのだ。そこをしっかり捕まえているからこそ、綾野剛は産婦人科医に続いて悪徳刑事を演じ、両方を自分の当たり役にできた…と言い切っていいだろう。自分が演じるのは悪人になった(なってしまった)男であって悪役ではない、と深く理解していなければ、こんな演技はできない。

同じ6月に同企画で放送されるのは、〈やくざにならない自由〉を求めるチンピラの青春を描いた川島透監督の「チ・ン・ピ・ラ」(’84)、「ハワイアン・ドリーム」(’87)、〈任侠×グルメ〉のアプローチで話題を呼んだテレビ東京の深夜ドラマ「侠飯~おとこめし~」(’16)。「日本で一番悪い奴ら」とは違う趣きの作品ばかりで、アウトローの映画と一口に言っても、ここまでくるとかなり幅が広い。むしろ、ワルだからこそなんでもあり、なのかもしれない。


若木康輔(ライター)

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2020.4.24

ぴあ×チャンネルNECO強力コラボ連載第112弾!!
ローカライズに成功した人気シリーズ。その魅力とは?

最近、日本のTVドラマ界では海外ドラマのリメイクが流行中だ。昨年は弁護士ドラマ「グッドワイフ」(TBS)、「SUITS/スーツ」(フジテレビ)とリメイクが続き、今年も「SUITS/スーツ」のシーズン2が4月から放送スタート。さらに、あの大ヒット・ノンストップ・アクション「24 –TWENTY FOUR-」もテレビ朝日でリメイクされることが発表されている。そんなブームのきっかけとなったのは、'16年からWOWOWで放送が始まった「連続ドラマW コールドケース 〜真実の扉〜」。すでに今年の冬にシーズン3の放送が控えているこのドラマこそ、海外ドラマのローカライズに成功した先駆けの作品といえるだろう。

アメリカ版の「コールドケース」は、「CSI:科学捜査班」シリーズのジェリー・ブラッカイマーが手掛けたクライム・ドラマのヒット・シリーズの一つで、'03〜'10年まで全米CBS局で放送された。アクション重視のクライム・ドラマが主流だった中で、このドラマは‟コールドケース“と呼ばれる未解決のまま時が経ってしまった殺人事件を、女性刑事リリー・ラッシュを中心とした殺人課のメンバーが再捜査により解決していくという異色の設定で、事件のミステリーが心の琴線に触れるノスタルジックな人間ドラマにフォーカスされるという、人情に訴える日本の刑事ドラマにも通じる作品だった。

また、本作は1話完結のエピソードで、基本的に同じ構成パターンが用いられていたのも印象的。例えば、冒頭に事件発生のシーンを描き、そこから現在に飛んでリリーたちの再捜査の様子がつづられる。事件の関係者が登場すると現在から過去の姿にフラッシュバックするカットが挿入され、実際にあった歴史的な出来事や事件を織り込み、当時の流行音楽を流すことで時代感が演出される。さらに、オープニングとエンディングに捜査資料を収めた箱が象徴的に映し出されるのが、番組のトレードマークとなった。

そんな黄金の方程式を踏襲して制作された日本版は、アメリカ版を知っている人なら「なるほど」と膝を打ち、知らない人も違和感なく楽しめる良作に仕上がっている。事件の背景となるのは50年代のGHQ占領時代、70年代の学生運動、'95年の阪神淡路大震災など日本の歴史や社会に関わるものとなり、当時を喚起させる音楽として日本人なら誰もがなじみのある洋楽・邦楽のヒット曲が使われる。例えば、シーズン1・第8話「ミレニアム」では2000年を迎える大みそか、モーニング娘。の「LOVEマシーン」が流れるミレニアムの夜にひき逃げ事故が起こり、16年後にその犯人が名乗り出て再捜査が始まる。そして、最後にはエルヴィス・コステロの歌う「She」をバックに、事件の裏にあった悲しい恋の物語がつまびらかにされるのだ。そんなふうに「コールドケース」らしさを取り入れながら日本色も打ち出すバランスの良い世界観で語られるエピソードは、どれも観る者の心に深い感動と余韻を残していく。

また、海外ドラマでは「クローザー」「Major Crimes~重大犯罪課」など女性が捜査チームの先頭に立つ刑事ドラマは珍しくないが、日本ではまだまだ少数派。そんな中、吉田羊が演じる主人公の女性刑事・石川百合は視聴者の共感を呼ぶ存在として作品をけん引する力強さと魅力を放っている。さらに、彼女を支える捜査チームの面々も永山絢斗、滝藤賢一、光石研、三浦友和といった演技派俳優たちが勢ぞろいしたことで、アメリカ版に負けない絶妙なコンビネーションが生まれた。その他にも、海外ドラマといえば各話にさまざまな俳優たちがゲスト出演するのが恒例だが、本作も仲里依紗、門脇麦、ユースケ・サンタマリアやブレイク前の中村倫也、吉沢亮といった人気俳優が登場してくるので見逃せない。

このように日本版ながら、すでに自分の足で歩き始めたと言っていい「連続ドラマW コールドケース 〜真実の扉〜」。アメリカ版は7シーズン続いたが、日本版はどこまでシーズンを重ねていくことになるのか、今後のシリーズの成長が楽しみだ。


小酒真由子(ライター)

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2020.3.24

ぴあ×チャンネルNECO強力コラボ連載第111弾!!
松井珠理奈不在のSKE48が一足早く訪れた、'18年夏のリアルタイムドキュメント

今年2月、松井珠理奈のSKE48からの卒業が発表された。

'08年のSKE48結成以来、グループを支え続けてきた1期生最後の1人にして、絶対的エースの卒業。メンバーもファンも誰しもがいつかは訪れると分かっていながら、まだしばらくは先のことだとも思っていたかも知れない“その時”が、ついにリアルな現実として迫ってきた。

そんな“珠理奈不在のSKE48”が一足早く訪れたのが'18年の夏であり、そのひと夏を主軸の一つとして描いたのが、同年10月に公開された「SKE48ドキュメンタリー映画 アイドル」である。

その年の6月に行われた「AKB48 53rdシングル 世界選抜総選挙」で、珠理奈は長年の悲願だった1位を獲得。地元・ナゴヤドームで初めて開催された総選挙での栄冠でもあり、同胞の須田亜香里が2位となるワンツーを飾ったことと合わせ、折しも結成10周年を迎えたSKE48のますますの快進撃を期待させる夏の始まりだった。

だが、その直後から珠理奈が体調不調によって活動休止。センターを務めた7月リリースのニューシングル「いきなりパンチライン」のリリースイベントをはじめ、全ての活動から離れることに。

イベントや音楽番組での「いきなりパンチライン」のセンターは須田が代役を務め、本家に負けじと気迫を見せつけるパフォーマンスを展開。珠理奈の穴を感じさせなかったばかりか、珠理奈の「いきなりパンチライン」とはひと味違った楽曲にも生まれ変わらせた。その実績が今年1月リリースの最新シングル「ソーユートコあるよね?」での初センターにつながったのであろうことは想像にかたくない。

映画ではそんな須田の奮闘や大役に臨むことになった葛藤のほか、珠理奈の活動休止で初めて1期生不在となった毎年恒例だった「美浜海遊祭」、中堅としてグループをけん引しつつある”台風の目”6期生の東京・赤坂サカスでの単独ライブ(くしくも当日は台風が近づき、雨の中での伝説のライブとなった)など、SKE48新時代への幕開けを象徴する出来事の数々を舞台裏の映像も含めてフィーチャー。いずれは訪れる“珠理奈が去ったSKE48”に向けたメンバーの意識を高めたであろう、熱いひと夏の光景が収められている。

'18年7月に映画の制作が正式発表されて以降も、10月の公開直前のタイミングまで、撮影や編集が行われていただけあり、公開時点で限りなくリアルタイムなドキュメンタリーとなっているのは、TV局制作ならではだろう。

公開当時には在籍していたが、現在では卒業しているメンバーも含め、さまざまな思いがあったであろう“あの夏”のSKE48を即時に記録として残した意義は大きい。そんなメンバーたちの姿や言葉を通して、「アイドル」というド直球なタイトルの通りの「アイドル論」にもなっている。

中でも、冒頭の高柳明音と同じ2期生の卒業メンバーにして今は母となった古川愛李とのシーンは、“アイドル”という一過性の存在の現在と未来を示している。

そんな高柳も珠理奈に先駆け、'19年10月に卒業を発表(今年3月に予定されていた卒業コンサートは昨今の情勢から延期となり、放送時点で開催されているかは未定)。'18年夏の出来事を経たメンバーの意識の変化が、珠理奈や高柳に卒業を決意させたのかと思いながら改めて映画を見ると、公開当時とはまた違った感慨がよぎる。


青木孝司(ライター)

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2020.2.25

ぴあ×チャンネルNECO強力コラボ連載第110弾!!
ちょいエロも楽しめる⁉ アカデミックな教養番組が爆誕

今回ご紹介するのは、映画・チャンネルNECOのオリジナル番組「着脱図鑑」。 “服装とは生き方である”という天才デザイナーであるイヴ・サンローランの言葉で始まり、さまざまな服の歴史や構造とともにその服の着せ方を少し、脱がせ方を懇切丁寧にじっくりと教えるという、かつてない教養番組である。つまり女性モデルを使って脱がせ方を実演して、見せてくれるのだ。ここ大事。

「着脱図鑑」は極めてアカデミックな内容であるため、服飾に興味のある方は服の歴史や構造を学ぶことができる。女性にとってはファッション番組として、知らない服や着こなしを知ることでオシャレのヒントにもなるし、コスプレーヤーの参考資料としても利用できてしまう。さらに本作は、女性が衣服を脱いでいくというちょいエロ番組として、男性は独りでこっそりと楽しむこともできる。もしかするといつか出会うかもしれない異国の女性と遭遇した時、役立つことがあるかもしれないし…、ないかもしれない。だが教養番組をそんな好奇な目で見ていいのだろうか?

いいのである。「着脱図鑑」のプロデューサーであるS氏は本作の企画意図についてこう語っている。「AVや成人向け映画でカラミのシーンはあるが、そこに至るまでの女性の服を脱がすシーンはあまりない。その部分を見たい男性もいるのではないか」と。

男とは因果な生き物である。例えば、ここに全裸の女性と服を着た女性がいるとしよう。男性なら全裸の女性に目が行くのは当然だ。ところが服を着ている女性が脱ぎ始めると、興味の対象が変わってしまう。そこには全裸というエロスへ向かっていく過程のスリリングな興奮があるのだ。脱ぐという行為自体に、エロスを感じてしまう男性から見ると、本作は十数分をかけたスローなストリップと言っても過言ではない(最後は下着ではあるが)。

さて、その第1回は“十二単”。“じゅうにたん”ではなく、“じゅうにひとえ”。十二単とは平安時代中期から始まる宮中での女性の正装のことで、おひなさまが着ているような着物を幾重にも着重ねた衣装のこと。「着脱図鑑」では、十二単とは正しくは“唐衣裳装束(あるいは“晴装束”や“女房装束”)”と呼ばれていたこと、実際には12枚とは限らず、多くの着物を重ねたものを指し、名称は後に付けられた俗称であることを教えてくれる。実に勉強になる。では、なぜ12枚ではないのに十二単なのか? その答えは番組中に明らかになる。さて、ここからが本題である。この総重量20kgに及ぶこともあるというよろいのような衣装をどうやって脱がすのか…? それは番組を見て、自身の目で確かめていただきたい。

第2回は“サリー”。魔法使いではなくインドやネパール、スリランカなど東アジア地域の女性が着ている民族衣装のこと。このサリーのすごいところは1枚の布であるということ。そもそもサリーとは細長い布という意味だという。さすがは人類史上最古の民族衣装で、5000年もの歴史を持つだけのことはある。サリーには金による装飾や刺しゅうがなされているそうで、嫁入りの時はそのまま持参金にもなるのだとか。スゴ過ぎるぞ、サリー。しかし、1枚の布ということは脱がすのも簡単で、あっという間に終わってしまうのではないか…という懸念があった。もしかすると日本の着物の帯のように、時代劇の悪い殿様が「よいではないか、よいではないか」と言いながらお姫様の帯を引っぱり、「あ~れ~」とくるくる回ってしまうアレになってしまうのではないか…? 一体どうなるのか、乞うご期待だ。

この「着脱図鑑」、オモシロちょいエロ真面目な番組ではあるが、衣服と女性に対するリスペクトはもちろん、語られる内容は服飾専門家の監修によるもので、歴史考証もしっかりと行われている。今後は西洋のドレスや韓国のチマチョゴリ、さらにはフィギュアスケートの衣装など幅広く取り上げていきたいという。

ところでプロデューサーS氏がこの「着脱図鑑」を作るきっかけとなったのは、「なぜ女性のドレスのファスナーは背中にあるのだろう?」という疑問だったようだ。自分では着脱しにくい位置にあるのは、なぜなのか。そのファスナーを下すのは、いったい誰を想定しているのか…。そこから、「ドレスの構造やコルセットの感触など、男性の知らない女性服について解き明かしていく番組」(S氏)が生まれた。「着脱図鑑」を教養番組として見るか、ちょいエロ番組として見るかはあなた次第なのだ。


竹之内円(ライター)

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2020.1.24

ぴあ×チャンネルNECO強力コラボ連載第109弾!!
「ジャックナイフ」の切れ味健在! 千原ジュニア版・萬田銀次郎

グループ魂の名曲「竹内力」でも冒頭から連呼されるように、「ミナミの帝王」と聞いて最初に連想するのは泣く子も黙る竹内力の凶器的な顔面だろう。原作コミックが「漫画ゴラク」で連載を開始したのはバブル末期の’92年。連載は現在も続いており、’20年で29年目に突入。コミックスは既刊155巻を数える。そんな人気コミックが竹内を主演に据えてVシネ化されたのは、連載初期の’92年。瞬く間にレンタルビデオ店で高回転率となり、人気シリーズの仲間入り。二枚目路線から脱却した竹内の代表作となったのはご存じの通りだ。

だがしかし(意外と認知されていないが)、ここ10年、萬田銀次郎といえば千原ジュニアである。現在の実写版「ミナミの帝王」=「新・ミナミの帝王」はVシネマではなくスペシャルドラマ。関西テレビで年に1~2本ずつオンエアされており、年を追うごとにジワジワとファンを増やしている隠れた人気シリーズなのだ。

ワケアリなブラック客にも「トイチ(10日で1割の利息)」で金を貸す萬田銀次郎。これまで回収に失敗したことは皆無。その容赦のない取り立てに人々は恐れおののき、“ミナミの鬼”と呼ぶ。反面、大事な顧客が詐欺師たちから狙われた際には、「回収」の名のもとに救いの手をさしのべる義理人情に厚い側面も。決して勧善懲悪ではなく、毒を持って毒を制す。そんな銀ちゃんのダークヒーローぶりが見る者をスカッとさせてくれる。

さて、あまりにも竹内 “銀次郎”のイメージが強いため、千原“銀次郎”にアレルギーを持つ人も多々いらっしゃると存じますが、「くわず嫌いはもったいない!」と声を大にして言わせてもらいます。竹内扮(ふん)する初代銀次郎とはまた違った魅力が、二代目にはあるんですよ、奥さん! 今やバラエティー番組で温和なほほ笑みを浮かべるのが当たり前となったジュニアではあるが、ここには「ジャックナイフ」というあだ名で呼ばれていたあの頃の切れ味が大健在。感情を抑制しながら相手の目をじっと見据え、真綿で首を絞めるように少しずつ飲みこんでいくさまにゾクゾクしっぱなし!

たとえば第2話では、これまで萬田金融が回収に失敗したことがないというわさを聞きつけた男が、わざと10円だけ借りて新潟までトンズラし、場末のスナックで、「わしはあのミナミの鬼から金を踏み倒した。萬田銀次郎の顔をつぶしてやったんや!」と高笑いをする。そこにユラリと現れる銀次郎。トイチとはいえ、元金が10円なら延滞しても微々たるもの。大阪から新潟までの交通費だけで大赤字である。だが、そんなことはお構いなしとばかりにニヤリと視線を送り、底知れない恐怖を植え付けて相手の腰を抜かしてみせる。この大胆不敵な表情芝居こそが千原“銀次郎”の真骨頂なのだ。

一方、どっしり構える銀次郎に代わって、ハツラツとアチコチ奔走するのが若き舎弟の竜一。この竜一に扮するのが大東駿介だ。シリーズ開始当初はぎこちなさが伝わるタッグだったが、回を追うごとに関係性が深まっていくのがよく分かり、今では息もピッタリ。Vシネ版の舎弟は柳沢慎吾や山本太郎らさまざまな俳優が演じてきたが、ドラマ版は不動のタッグで10年間走り続けている。もはや大東演じる竜一は、もう1人の主役といってもいいほどだ。

時事ネタをふんだんに取り入れるのは、原作コミックやVシネ版と同様。未公開株詐欺やオレオレ詐欺、さらには下町ロケット的なエピソードまで、われわれにも魔の手がのびるかもしれない詐欺のカラクリを、分かりやすく解き明かしてくれる。スタート当初は36歳だったジュニアも40代半ばとなり、銀次郎の貫録も増してきた。千原“銀次郎”のさらなる活躍に期待だ。


奈良崎コロスケ(ライター)

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